諦めると明らかになるの語源は同じ、強い思いは必ず実現する

ー杉浦佳浩

諦めると明らかになるの語源は同じ、強い思いは必ず実現する


2020年 05月 04日

【今週の自戒】
~諦めると明らかになるの語源は同じ、強い思いは必ず実現する~

先日オンラインからのご紹介で
じっくりお話す機会を得た
経営者さんと話していて

あまりに正々堂々とされながら
自社の分析、アクションプランが
スラスラ、、、
今年の赤字額はこの程度
その中で事業投資はこの程度
事務所の移転、登記場所変更
従業員との向き合い方
銀行との付き合い方 等々
メモが追い付かないほどの
スピードでした。
おおよそ経営に必要なこと
明朗、すべてイメージが出来ている。

2つ頭に浮かびました。

ひとつは、

私の30代前半、
当時のお得意先の社長さん
大正生まれ世代でした。
その社長さんからは私は苗字で
呼ばれず、
『住友さん、住友さん』と
社名で呼ばれていました。
その社長さん、
『うちの売上10年間0円でも
社員の給与払えますねん、それが
強い経営ですわ』と仰ってました。
戦争を乗り越えてきた強さを
教えてくださいました。
この経営者さんには、当時各銀行のえらいさんが
経済動向、為替動向の意見を求めるほど。

私にも問答を投げかけてくださり、
今年の年末、株価、景気はどうなる?
というような質問、後々の答え合わせ
解説を忙しい中教えて頂いたことが懐かしく。
覚悟のある経営者さんだと。

もう一つは
諦めるは明らかになると語源は同じであること。
以下 生活の中の仏教用語から引用します。

今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。そうであれば、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となる。

納得しての諦めには、【愚痴】が入り込む
隙間すらない。

先日の経営者さんが
納得しての諦め、
今起こっていることを
つまびらかにしているからこそ
やるべきことに集中できている
そう感じ入りました。

そこには強い思いがある
大義がある。
実現する、事を成すには
やはり強い、強烈な思いが
あればこそと思いながら
1時間のMTG、フラフラになりました。
そして
素敵な時間でした。感謝。

自分なりに 感謝の気持ちを持ち、
強い思いにフォーカス出来る
1週間に!
今週も
よろしくお願い申し上げます!

【心ひとつの置きどころ】

中村天風師の心に響く言葉より…
とにかく、何をする場合でも、現在恵まれている自分を感謝しなければいけませんよ。
病(やまい)になっても、運命が悪くなっても感謝するんです。
こう言うと中には、
「何かもらったらとか何とかなら感謝もするが、患(わずら)って感謝する馬鹿があるか」と言う人もいるわね。
でもそういうふうに考える人があったら、そう考える人こそ馬鹿ですよ。

私も初めてそれを言われたときわからなかった。
私がインドでひどい病を患っていたときです。
毎日、そりゃ形容もできない病の苦しさで辛い思いでいたとき、ある朝、私が教えを受けていた先生が、
「お前って、世界一の幸福者だね」
と、こう言うんです。
明日をもしれない重病で苦しんでいる時だけに、その言葉を聞いて私、腹がたちましたよ。

「ひやかしも、いい加減にしてください」と言ってやりたかったが、向こうは階級の違う先生だから、突っかかっていくわけにもいきません。
そうしたら、
「お前よく考えなさい。
お前は自分が現在患っていることを非常に恨みがましく思っているかもしれないけれど、死なずに生きていることをなぜ感謝しないんだ。
よしんば、死んだからって喧嘩(けんか)にもならないし、それにまだ死なずに生きているじゃないか。
そのうえ、その病があればこそ、このインドの山の中まで来て、人生というものを研究しようというい真面目な気持ちになれるんだ。
もしも病がなかったら、何の役にもたたない他の所へ行ってしまうだろう。
それを考えてみれば、病に対してなぜ感謝しないんだ」
と言われ、ああそうか、私は阿呆(あほう)かいななあと思った。

私、世の中にはもっと恵まれて丈夫で幸せに生きている人もあるだろうに、自分は何も悪いことをした覚えもないのに、こんな病を患うなんて、神も仏もあるもんかって考えてた。
ありがたい、嬉しいなんて気持ちはちっともなく、見当はずれな恨みをもち、愚痴を言っていたんです。
だから自分ながら愛想のつきるほど汚い気持ちと、不平不満ばかりで、感謝しなければならないような場合でも感謝せず、何の権利もないくせに自分だけには幸せな運命が来るのを当然のものとし、それをなし能(あと)う資格があるように、その当時の私は考えてた訳なんです。

ですから、感謝の念のない人間は不幸ですよ、ほんとうに不幸ですよ。
もののありがた味がわからないのですから。

何を見ても聞いても腹がたって、コンプレックスを感じる人生が愉快ですか?
つつましやかに感謝の念をもって生きるようになったら、どれだけ人生のスケールが大きくなるかわからないでしょう。
結局、人生といっても、それを決定するものは、心なんです。
昔から言っているでしょう、「心ひとつの置きどころ」と。

側(そば)からは辛かろう、苦しかろうと思うようなことでも、本人がああ嬉しい、ありがたいと考えれば何でもないんだ。
何もかも心の置きどころを替えることです。

『君に成功を贈る』日本経営合理化協会出版局

「無一物中、無尽蔵(むじんぞう)、花有(あ)り、月有り、楼台(ろうだい)有り」
という詩がある。
千年ほど昔、中国の蘇東坡(そとうば)という詩人が詠んだ歌だ。

我々は、ないことを嘆く。
病気も同じで、足が痛いなら、それ以外は無事なのに、そこを見ることはしない。
すると、不平不満、文句のオンパレードの毎日となってしまう。
しかし、見渡せば、野には花もあるし、月もあるし、それを見る高い建物(たかどの)もある、という詩だ。

我々は本来、はだかで生まれてきた。
それを裸一貫(いっかん)という。
自分の体の他には何の資本もないということだ。

そのことを、俳人小林一茶はこう言った。
「はだかにて生まれてきたに何不足」

本当は、我々は生きているだけでありがたいのに、年を重ね、浅知恵がたまってくるにしたがって、不平不満や文句が多くなる。
「人生は心ひとつの置きどころ」
この今、死なずに生きていることに感謝…
この今、日本に、そしてこの地域に、自分の両親のもとに、生まれたことに感謝…

感謝の気持ちで、この今を過ごしたい。

上記の【心ひとつの置きどころ】については人の心に灯をともすより引用しています。