お遍路も半分過ぎて 十善戒が滲み入る感じに

ー杉浦佳浩

お遍路も半分過ぎて 十善戒が滲み入る感じに


2022年 09月 19日

【今週の自戒】
お遍路も半分過ぎて 十善戒が滲み入る感じに

四国お遍路さんに誘ってもらえて
本当に有り難いと思っています。

最初はしんどかった(今もですが)
歩くだけでもしんどいのに、
お寺について大きな声でお経を唱える
息も整わない中で。
意味もよくわからない読めない
言葉を読むのではない、
音(オン)で覚えること
ここ最近やっと様になってきて
唱えるのも楽しくなって、
8月お参りしたお寺で
写真のとおり、
十善戒の意味が記してありました。
立ち止まってじっくり、
唱える音とともにスッと意味も入ってきました。
まだまだ至らぬことばかり
何やってんのかと日々反省しています。

お経の有難さを感じ、
先達の残した言葉に戒める。
今週もよろしくお願い申し上げます。

【禍福は糾える縄の如し】
内科医、石川恭三氏の心に響く言葉より…

物事があまりにうまく運んでいると、こんなに良いことばかりが続くはずはない、そのうちにきっと何か悪いことが起きるに違いないと不安になる。
それは長年の経験から、「禍福は糾える縄の如し」であることが身にしみているので、良いことの次にはきっと悪いことが起こるに違いないと覚悟して、今ではそれに対して身構えることがごく自然にできているからなのだと思う。
だが、若いころはそうではなかった。大きな幸運が舞い込んできたときには、多分、 自分ではそんなつもりはなかったのだろうが、人目もはばからずに欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して喜びをばら撒いていたに違いない。
そんなとき、周りの人たちは、はたして喜んでくれていただろうか。
親族は別として、決してそうではなかっただろう。
中には喜んでくれた人はいたとは思うがそのような人はごく稀で、ほとんどの人は表面では喜んでくれているように振る舞いながらも、内心は羨望や妬(ねた)みの感情が渦巻いていたに違いない。
このような人情の機微を実感するようになったのは、もう人から羨(うらや)まれるような出来事など起こるはずもない、人生の最盛期を越したずっとあとになってからだった。

私の座右の銘の一つに「得意冷然、失意泰然」がある。
これは、得意の絶頂にあるときは、有頂天にならずに何事もなかったように平然と構え、失意のどん底にあるときは、落ち着いて、物事に動じないようにすることをいうのだが、実際にそうすることは容易ではない。

大学病院に在籍していたころは、これに従って心の容(かたち)を整えようと真摯に立ち向かったことが何度かあった。
それは、濁流に呑み込まれて今まさに押し流されそうになったとき、岸辺の木から張り出している一本の小枝に手が届き、それに必死になっ てしがみつき、辛うじて一命をとりとめることができたようなものだったと思う。

とんとん拍子に出世の階段を上っていた人が、ごく些細な出来事につまずいて階段から転げ落ちることがある。
その些細な出来事は、身から出たサビともいえるようなことがほとんどで、ちょっと注意していたら避けられたのではないかと思われる。
政界で飛ぶ鳥落とす勢いの人が、失言や政治資金規正法違反や収賄やさまざまな金銭的トラブルなどで、あっという間に失脚することが今ではそれほどめずらしいことではなくなっている。

そこまでの高みに到達するまでには、非凡な才能と努力に加えて、数々の幸運に恵まれていたのだろう。
だが、往々にして幸運の足元は暗く、そこにはしばしば大きな落とし穴が仕掛けられている。
謙虚な気持ちで注意を怠らなければ、そんな落とし穴などすぐに見つけて避けて通ることができるのだが、幸運に酔った目にはそれが見えないのであろう。

『一読、十笑、百吸、千字、万歩』河出書房新社

安岡正篤師は「六然(りくぜん)」(崔後渠・さいこうきょ/明の学者)についてこう語っている。

■自処超然(じしょちょうぜん) 「自ら処すること超然」
自分が対処するにあたって、何事にも捕らわれずにいること。執着しないこと。

■処人藹然(しょじんあいぜん) 「人に処するに藹然 」
人に対しては、春の風の吹くように、ほのぼのとした気持ちで、なごやかに付き合うこと。ほっこりとした気持ちで。

■有事斬然(ゆうじざんぜん) 「有事には斬然」
何か事件の起きた時、事あるときには、グズグスせず決然として断行する。

■ 無事澄然(ぶじちょうぜん) 「無事には澄然」
事なきときは水のように澄みきった気持ちでいる。

■ 得意澹然 (とくいたんぜん) 「得意には澹然」
物事がうまくいっている得意の時は淡々としている。偉そうにならず、謙虚で飄々(ひょうひょう)としている。

■失意泰然(しついたいぜん) 「失意には泰然」
失意の時はどっしりと落ち着いている。泰然自若としている。

「禍福は糾える縄の如し」と同義の言葉に、「人間万事塞翁(さいおう)が馬」(淮南子・えなんじ)がある。
一見すると不運に思えたことが、のちに幸運につながり、逆に幸運だと思ったことが、不運の始まりだったというようなことだ。
だからこそ、「 無事澄然」であり、「得意澹然」「失意泰然」の気持ちが大事だということ。

そして、もう一つ、「幸福三説」という幸田露伴の言葉がある。
幸福三説とは、「惜福(せきふく)」「分福(ぶんぷく)」「植福(しょくふく)」の三つの福のこと。
惜福とは、福を全部使ってしまわずに惜しむこと。

人気絶頂の俳優が、まだあと何十年と活躍できるにもかかわらず、惜しまれながら引退する、というようなこと。
分福とは、人に福を分けること。
植福とは、子孫や未来の子供たちのために、福を植えておくこと。

福が連続して続くことはない。
だからこそ、この「幸福三説」が必要となる。
今一度、「六然」や「幸福三説」を胸に刻みたい。

上記の【禍福は糾える縄の如し】については人の心に灯をともすより引用しています。