見かけ倒しはすぐに判る、やっぱり【芯】ですね
2021年 05月 31日
〜見かけ倒しはすぐに判る、やっぱり【芯】ですね〜
芯って大切ですね。
芯が大切だなと思うこと。
そこから今、数ヶ月、
チューブだらけ、折角の綺麗な設えも
台無しに。
55年以上経過した駅もおそらく【芯】
を見過ごしているのでは?と思います。
恥ずかしいという感覚もなし。
神渡良平氏の心に響く言葉より…教職にある人々が集う実践人の家の寺田一清常務理事が主宰者の森信三(のぶぞう)先生からこう尋ねられました。
「わが実践人の同志の中で、もっとも宗教的な方はどなただと思いますか?」
寺田常務は迷うことなく即座に答えました。「熊本の徳永康起(やすき)先生でしょう。あの先生ほど、教え子に慕われている先生はありません。熊本師範時代に洗礼を受けてクリスチャンになっておられ、その信仰に裏打ちされた、子どもたちに向かうひた向きさにはまったくもって感心します。先生と生徒たちとの間には“いのちの響き合い”があります。
徳永先生には、すべて身に起こる出来事は神さまの思し召しだ、ありがたくお受けしようという宗教的寛容さがあります。
それに南国生まれの性格でしょうか、『徳永先生のスケールのでかさは千万人に一人』と評されています。徳永先生は昭和八年四月、球磨郡久米村の村立久米尋常小学校下津木分校に赴任しました。
ここの、山一つ向こうはもう宮崎県という山奥の分校です。
ある日、小さな運動場で、ドッジボールをやっていた子どもたちがいさかいから取っ組み合いの喧嘩を始め、一人の少年が相手に馬乗りになって殴ろうとしていました。
徳永先生はあわてて止めに入り、少年の手を握って引き離しました。
少年はいつもみんなから“炭焼きの子”とけなされ、馬鹿にされている柴藤清次(しばとうせいじ)君でした。
柴藤君は小学校四年のときから、焼き上がった木炭を馬二頭の背中に背負わせ、山を越えて宮崎県の米良(めら)の荘(しょう)まで急坂を上り下りして運ぶ重労働をしており、ロクに学校に行くことができませんでした。
当然成績が悪いのでみんなに馬鹿にされ、あまり風呂にも入っていないので臭く、靴や草履もはかずにはだしで、身なりもボロボロで乞食の子のようでした。
だからみんなから仲間外れにされ、すっかりひねくれていました。
それが爆発して取っ組み合いの喧嘩になったのでした。事情を知った徳永先生は泣きじゃくる柴藤君をなだめて言いました。
「おい、青次君。今夜、宿直室に来い。親代わりに、俺が抱いて寝よう」
その言葉に柴藤少年はびっくりしました。
というのは、自分を「清次」と呼び捨てにせず、「君」をつけて一人前の人間としてみているのが伝わってきます。
それまでの担任の先生はできの悪い柴藤君を端(はな)から無視していたので、炭焼きの子は先生からも相手にされないんだとひがんでいました。
でも、この先生は違うようです。
徳永先生から目をかけられるようになり、柴藤君はすっかり明るくなって成績も上がり、みんなに溶け込むようになりました。
とはいえ、貧しい家の経済状態はよくなったわけではありません。
とうとう六年生を満足を終わらないまま卒業しました。
柴藤君は小学校を卒業すると、農家の下男として働きました。
続いて徴用工となり、さらに軍隊に召集され、満州に派遣されました。
しかし終戦となって、違法に侵攻してきたソ連軍に抑留され、バイカル湖に近いシベリアのイルクーツク州タイシェットにある悪名高い第七収容所に送られ、鉄道建設に従事しました。
タイシェットは、ヨーロッパ・ロシアと太平洋を結ぶバム鉄道が施設中の戦略的重要拠点で、鉄道の要衝です。
捕虜は、夏は蚊の大襲来に悩まされ、冬は零下四十度という信じられない気候に痛めつけられ、枕木一本ごとに死者が出るという過酷な労働でした。
柴藤さんはタイシェットのラーゲリ(捕虜収容所)、第七収容所では戦友の間を駆けまわって世話をし、みんなに希望と勇気を与えました。
柴藤さんは身を粉にして働く人で、人の世話も積極的に焼きました。
受け身に回り、人に世話を焼かれている人はだんだん気力が低下して病人になり、生き延びることができませんでした。
だからある意味では、人の世話を積極的に焼く柴藤さんの性格が幸いして、五年間もの労働を生き延びることができたと言えます。
柴藤さんは、昭和二十五年、シベリアから引き揚げました。
そして佐賀県の伊万里(いまり)に落ち着くとカマボコの行商を始めましたが、石炭不況のあおりを受けてうまくいかず、転職を余儀なくされました。
そこで軍隊時代に身につけた自動車の運転技術を生かし、昭和三十六年一月、伊万里自動車学校の教官に採用されました。
柴藤さんは結婚して家庭を持ちました。
新婚早々、警官も持て余していた四人の不良少年を自宅に引き取りました。
自分のみじめな少年時代を思うと、人ごととは思えなかったのです。
それぞれに自動車免許を取らせ、就職するまで八年間世話しました。
家庭は奥さんと、小学校三年になる息子と小学校一年の養女の四人になりました。
なぜ柴藤さんがそこまで他人の面倒を見るのかというと、理由があります。
柴藤さんはそれをこう説明します。
「私が“炭焼きの子”と馬鹿にされ、すっかりひねくれていたとき、担任の徳永先生が私を宿直室に連れて帰り、抱いて寝てくれました。それで私のひがみ根性が消えてなくなりました。今その恩返しをしているんです」
徳永先生は柴藤さんについてこう語っています。
「柴藤さんは小学校教育もろくに受けていない人ですが、百の大学を出た人以上に、人間の美しい知恵があります。天下の真人はとても謙虚で、胸を堂々と張って生きています。学歴くそ食らえです。」
「私のたった一つの誇りは、私よりはるかに高く、かつ深く生きている教え子の名前を、即座にすらすらと、何人でも息をつかずに言えることです。そしてそれ以外には何一つ取り柄のない人間です。ありがたきかな、無一物にして、しかも無尽蔵!」
『人を育てる道 伝説の教師徳永康起の生き方』致知出版社
本書の中にこんなエピソードもあった。
『徳永先生は貧しくて恵まれない家庭の生徒には、特に心を砕かれました。
あるとき、学校で工作用の切り出しナイフが必要になりました。
みんな親にお願いして買ってもらいました。
ところA君はそれを親に頼むことができませんでした。
親に言いだすことができず、おとなしい同級生のナイフを盗みました。
ところがその子が「ナイフがなくなった」と騒ぎ出し、当然クラスの誰かに嫌疑がかかりました。
これはまずいと思った徳永先生は昼休みになると、「みんな外で遊んでこい」教室の外に出し、疑わしい生徒の机に行き、「彼でなければいいが…」と願いながら、机のフタを開けました。
すると刃はキラキラ光って新品なのに、さやは削って墨を塗り、古く見せようとしたナイフが見つかりました。
徳永先生はA君の家庭の状況をよく知っていたので、親に頼めなかったA君の事情を思い、かわいそうになりました。
そこですぐさま自転車で学校の近くの文具店に行き、同じ切り出しナイフを買って帰ると、なくなったと騒いでいた生徒の本の間に挟み、机の一番奥に入れました。
昼休みが終わってみんなが校庭から帰ると、徳永先生はなくなったと騒いでいた生徒に言いました。
「君はあわて者だから、よく調べてみろ。なくなったと言われたら、他の者は気持ちが悪いからね」
するとその子は机の奥まで探し、教科書の間に挟まっていたナイフを見つけ、「あった!」と大喜びし、みんなに「すまなかった」と詫びました。
徳永先生が盗んだ生徒をちらっと見ると、涙をいっぱいためて徳永先生を見ていました。
先生はひと言も生徒を責めませんでした。
学校を卒業し、徴兵されニューギニア戦線に出撃したA君は、明日はいよいよ米軍と空中戦というとき、もはや生きて帰れないと思い、徳永先生に手紙を書きました。
「先生はあのとき、ぼくをかばって許してくださいました。本当にありがとうございました。死に臨むにあたって、先生にくり返し、ありがとうございましたとお礼を申し上げます」
そして最後に書き添えてありました。
「先生、ぼくのような子どもがいたら、どうぞ助けてやってください。本当にありがとうございました。さようなら」
そしてA君はニューギニアのホーレンジャー沖の海戦で、米軍の戦艦に体当たりして散華(さんげ)したのです。』
子どものころ、優しくされた思い出は鮮烈だ。
そして、そのことがのちになって、その人の人生を形作るようなバックボーンとなることもある。
逆に、むごい仕打ちをされたとき、それがひどいトラウマとなって残ってしまうこともある。
だからこそ、教師や親、大人の役割はとてつもなく大切だ。
たった一つの態度、たった一つの言葉で、人生を変えてしまう力を持っているからだ。
人を思いやり、育てる…
一つの態度、一つの言葉を、心の底から大事にする人でありたい。