ただただ睨んでいるだけは壁に穴を穿つことはできぬと達磨大師。やらなかったことと同じでは意味無し。

ー杉浦佳浩

ただただ睨んでいるだけは壁に穴を穿つことはできぬと達磨大師。やらなかったことと同じでは意味無し。


2020年 04月 13日

【今週の自戒】

ただただ
睨んでいるだけは壁に
穴を穿つことはできぬ と達磨大師。

氾濫する無駄な情報に
一喜一憂している声もありますが、
まったく動じず、
活動されている方々も多数いらっしゃいます。

・予定していた●●●●は一旦計画停止せざるを得ない状況です。
社員も全員リモートワークに切り替え、
来週からは1人会社で次のビジネスを作り上げるつもりです。
コロナが終息したら、すぐに動けるよう、
また、世の中が一気に不景気に向かっていることから、
今は昔のクライアントに連絡し、先週は100案件の仕事を受託しました。

なんと心強い報告、行動・活動あるのみ。

・優秀な人材が面談が出来ないことによって
ビジネスモデルの大きな変化が取り巻く業界に
起ころうとしています。
大きなチャンスとして受け止め、また自分自身の
変革の機会として●●●●●に大きくチャレンジ
し始めました。ITツールを使えば、いくらでも
マーケットの広がりに気付きました。

この様な会話が、先週はオンライン上で飛び交いました。
対話による自分への気付き、そんなお手伝いが出来て
シアワセです。

こんな時こそ、プラスの3Kを
思い浮かべる自分でありたいと。
松原泰道先生に感謝です。
先生のメッセージを
・感動、希望、工夫という「プラスの3K」という生き方をお勧め致します。

まず、感動についてですが、何でも当たり前だと思えば進歩はありません。100歳になりますと、朝起きると今日も生きていたというだけで感動を覚えます。そして、今日はあれを書こう、あれを読もうと思うのです。友人から聞いた話ですが、ある刑事さんが署長さんから「今朝、感謝したことや感動したことはあったか」と聞かれて、「ありません」と正直に答えたら、「刑事のような大事な仕事をしている人間が、感動がないというのはどういうことか」と大目玉をもらったそうです。そこで友人は、直感的に松尾芭蕉の「よく見れば 夏の花咲く 垣根かな」を思い出したそうです。私に言わせれば、心の受信装置を精密にすればするほど、何でもないことに感動することができると思います。いつも何かを学ぼうという気持ちを持っていれば、老いてぼけるのを遅らせることもできるでしょう。心の受信装置を鍛えるために必要なことは読書です。私はあらゆる犯罪の根源にあるのは、思索する能力が欠けていることだと思っています。今の人たちは、読むことと書くことによって、思索する能力をもっと強化すべきではないでしょうか。

次に希望ですが、自分だけでなく、他人にも希望を与えていきましょう。人の役に立つことは、自分の生き甲斐になります。逆境に直面したり、難病になったり、マイナスの状況に置かれたときも人の役に立つことを考えてみましょう。痛みが分かっている分、心から人を慰めることができるからです。相手も自分も救われます。

希望を実現するために必要なことが、工夫です。マイナスの状況をどうやってプラスにしていくかを考えてみてください。マイナスをプラスにすることに、生き甲斐を見いだせると思います。病気や人生の失敗をした人の励ましや再起は、同じ境遇にある人を元気づけることができます。七転び八起きと言いますが、挫折しても何か掴んで再起のヒントを掴めば、強い人になれます。一度転ばなければ分からないこともありますからね。「プラスの3K」で人生をより豊かにしていきましょう。

https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/campus/message_0805.html
こちらかの引用です。

そして、慌てない。
達磨大師の9年掛けた修行。
数年では判りませんね。

慌てない慌てない。新渡戸稲造さんにも感謝です。

【逆境や困難に慌てない】

新渡戸稲造氏の心に響く言葉より…

人は突然不幸に見舞われると、それがどの程度のものなのか、大きさが分からなくなる。
例えば、足元から急に鳥が飛び立つと、その大きさや種類までも分かってくる。
天災あるいは人による災いに遭遇した時も同じで、その瞬間は目がくらんで真相を見誤ることがある。
そして小さなことを大きく考えたり、大事なのに軽んじたりして、無駄に心を労したりする。

また禍いに見舞われた時、すぐにその始末をすると、その結果が将来まで尾を引いてかえって悪い結果を生じることがあるから、一歩退いて冷静になって対処することが必要である。
もちろん、失火とか病気とか、直ちに対処しなければならないものもある。
しかし火災の後の始末、家の再建などは考える余裕があるし、病気についてはどう対処するか、よく考えた方がいい。

僕の友人で、働きすぎから重い病気にかかった者がいた。
彼が発病した時、彼の妻は非常に心配して泣き出したが、友人が入院した翌日、「自分も非常に驚き疲れたので、3日間保養に行きたい」と言い、友人を看護の人に託して保養に行ってしまった。
3日間過ぎると妻は戻ってきて献身的に友人の介護を始めた。

結局この友人は全快するまでに3年以上かかったのだが、病気が癒えたのち、妻に「あの時保養に行ったのはどういう考えだったのか」と尋ねると、
妻は「あなたの病気が長くかかることが分かり、かつ私もあの時、あなたの病気がショックで吐血しました。看護する大切な役目があるのに自分が病に倒れることがあってはと思い、少し静養して気を静め、あなたの病気にどう対処するか考えたのです」と言った。

すべて禍いや不幸は不意に起こるものである。
慌てず落ち着いて前後を考え、物事の軽重を比較して対処法を考えることが大切である。
やみくもに大変大変と騒ぐとますます逆境に深入りしてしまう。

『逆境を越えてゆく者へ』実業之日本社

新渡戸稲造氏は本書の中で「逆境」についてこう語っている。
『僕は逆境にある人に、もう少し爪先立ちをして前を見ることを切に願う。
僕はたくさんの青年を知っているが、中には学校の試験に落第した者、校則に違反して退学を命じられた者、商売で失敗した者、養子に行ったが先の人たちと意見が合わなくなった者、病気になり医者から警告を受けた者などいろいろいる。
青年の傾向として、一度落第すればもう学問はできないと思ったり、退学を命じられると世界中に勉強する場所は他にないように思い込んだり、一時意見が合わなくなると永久にその家の人たちとはやっていけないように思ったり、医者から注意されると直(ただ)ちに死の宣告を受けたかのように思ったりする。

こうした時に、「さて、この先は…」と静かに熟考すれば、必ず前途に光が見えるはずである。
かつて、後藤男(だん・後藤新平)からこんな話を聞いた。
後藤が勝海舟を訪れた時のこと、勝翁が「君は医学生なら首の筋肉作用くらいは知っているだろう。ろくに知らない奴が多いんだよ。縦や横に動かすことは知っていても、何か事が起こった時に、チョイット首を伸ばして向こうの先を見通すことのできない奴が多い」と言われた。
まさにそのとおりで、事が起こるとただ慌てふためくばかりで、「さて、この先は…」と首を伸ばすことはなかなかできない。
だから昔の人も、「窮地に陥り勢いのなくなった人は常に初心に帰るべし」と言っている。』

「山を出なければ山は見えない」
という、特別尼僧堂堂長・正法寺住職、青山俊董氏の言葉がある。

我々は、山の中に入り込んでしまうと、今自分がどこにいるのかを忘れてしまう。
これは、逆境や困難という山も同じだ。
その中に入り込むと自分を見失ってしまい、不必要にあわてたり、不安で取り乱したり、泣き叫んだりする。

不安の渦に巻き込まれそうになったときは、自分を他人のように客観視して見る。
「さあ、どうする(自分)」、「さてこの先は…」と突き放してゲームのように見てみる。
そのとき、自分があまりに、真面目過ぎることや、近視眼的であることに気がつき、ニヤリと笑いが浮かんだらしめたものだ。

逆境や困難を越えてゆく者でありたい。

上記の【逆境や困難に慌てない】については人の心に灯をともすより引用しています。

冒頭の写真の言葉の全文は以下です。

禅の開祖・達磨は修行のために壁に向かって坐禅を組んだ。以来、雨風に曝されようが、膝に蜘蛛が登ってこようが、わき目もふらず面壁九年。悟りを得た達磨は、足を解いて立ち上がった際、こう言ったという。
「なるほど、ただ睨んでいるだけでは、壁に穴を穿つことはできぬ」
さて、当たり前の事実を言うこの言葉。これをたわいないことと笑っていいのだろうか。
仕事や学習において、日常、成すべきことに囲まれているのが私たちである。けれども、そのすべてが遂行できているかと言えば、甚だ心もとない。
理念に基づく尊い仕事すら、気を許せば、理想を追求するより、出来る現実に照準を合わせている。実力向上を望んで準備する試験も、結果が伴わなければいつも別の理由を探している。
それはやれなかったのではなく、結局睨むばかりでやらなかったことと同じなのではないだろうか。
穴を穿つには、断固たる覚悟がまず求められよう。睨んでいるだけでは何も成しえないのである。

月刊「PHP」2020年4月号 裏表紙の言葉より。