昔、落ち込む自分に『ただ人の話を一所懸命に聞いてごらん、世界が変わるから』と言われたことを思い出す。

ー杉浦佳浩

昔、落ち込む自分に『ただ人の話を一所懸命に聞いてごらん、世界が変わるから』と言われたことを思い出す。


2020年 01月 27日

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30年以上は経過したかな。
自分の能力の低さを感じ、落ち込んでいた時
当時の先輩から
『ただ人の話を一所懸命に聞いてごらん、世界が変わるから』
と言われたことがありました。
頭が悪いことを横に置き、
目の前の人の話を一所懸命聞いてみる
そこに集中する【癖】を意識しだしました。

先日、晩御飯をご馳走になった経営者さん
私が御礼のメッセージを送りますと
『しかしこうして杉浦さんに見守っていただいている事は何となく安心感があります。』
と返信がありました。
なかなかお会いできない方から
有り難い言葉。30年経ってやっと
解って来た気がします。

また、別の機会、
ビジネスの世界で金字塔と言える
タイトルフォルダーの方と初めて
同行させていただく場面も最近ありました。
私の懇意の経営者への紹介の場面。
その方は
30分は口を開かずにずっと耳を傾けていらっしゃいました。
途中で、
大丈夫か?
この紹介は失敗か?
どうしよう。。。
と思うくらい、表情を変えることなく
時間が経過。
少しの沈黙を経て、
『私は素人で、社長ほどの見識はありませんが。。。』
そこから堰を切って出てくる言葉が
未来志向
着眼がピンポイント
知見、示唆に富む
文字数は多くなくて
これほどのレベルのお話が聴けるとは。。。
と経営者も、私も沸点に達しておりました。
これも傾聴の姿勢と確固たる要点把握力が
有ってこその展開であったと思います。

人の話を聴いてみる。
今一度大切にしたいと思います。
今週も
よろしくお願い申し上げます!

【聴くことに優れている人が羅漢さま】

臨済宗妙心寺派、福聚寺(ふくじゅうじ)住職、玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)氏の心に響く言葉より…

仏教では「聴く」ことの能力だけで六道(ろくどう)を超えるんだと規定しています。
六道とはつまり地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間(じんかん)・天ですけど、更にその上がありまして、どんなに悪い癖があろうと「聴く」ことに長(た)けていれば「声聞(しょうもん)」という位になります。
また聞くことに限らず、他の五感からの刺激で物事の本質を覚(さと)るのが「縁覚(えんがく)」ですね。
更に「菩薩(ぼさつ)」「仏(ぶつ)」を合わせて「十界(じつかい)」と云うんです。
ともかく六道を超える状態は、「聴く」ことによってもたらされるわけですね。

「聴く」ことがそんなに難しいだろうか、と思われるかもしれません。
しかし普段私たちは、「ありのまま」に物を見たり聞いたりなんてしていないんです。
音の大きさを表す「ホーン」という単位がありますが、ホーン数の大きい音から聞いているかというとそんなことはない。
聴きたいと思う音を選んで聞いているわけです。
目のほうも同じですね。
見たい物だけを見てますから、同じ場面で見ても人の記憶はみな違ってきます。

別な言い方をすれば、人は記憶するために大部分を切り捨てているのかもしれないですね。
全体というのは決して記憶されませんから。
ですから何かに集中していれば大きな音でも気にならないということが起こってきます。

例えば耳に入ってきた音や言葉は、素直に聞いているのかというと、どうもこれがそうでもないんですね。
つまり人は、ヘタすると聞いたことに対する自分の頭の中の批評を聴いていたりする。
すぐに言い返したり、話し終えるまえに「解った」なんて言ってみたり。
あるいは勝手に「要するに」なんてまとめようとしたり、ですね。
聴くという時間も惜しんで自己主張しているフシがあります。

本人も気づかずに言っていることが多いとは思いますが、私たちはけっこう「もう聴きません」という態度をとってますよね。
「誰それさんも同じこと言っていた」
「そんなこと、みんな知ってるよ」
「いつも同じこと言うね」
「つまり、〇〇ということね」
「君は〇〇な人だね」

こんなのは皆そうですね。
「私は聴かれていない」という気分を相手にもたらします。
あと無視、というのもありますね。
完全な沈黙で返す。

こうした態度で、人は次第に寂しさとかイライラとか、慢性的な怒りさえ感じるようになります。
ひとりよがりも、聴かれていないという体験の積み重ねで起きてくると思いますね。
そうすると人はだんだん予防するようになる。
「結局」とか「どうせ」とか「やっぱり」なんていう言葉を、自分で頻繁に言うようになるんですね。

聴くことは本当に難しい。
だから仏教では耳が大きい、というだけで六道を越えさせるんですね。
いわゆる羅漢(らかん)さまです。
声聞・縁覚を併せて「羅漢さま」と呼ぶんですが、これは聴くことに優れていれば大概の悪癖は許してしまう、ということです。

将棋好きとか酒好きとか、いろんな羅漢さんがいるでしょ。
聴くことにさえ優れていれば、全てOKなんですね。
因みに羅漢さまの元になった「阿羅漢」つまり「アルハット」という言葉は、当初は「お悟りを開いた人」という意味だったんですね。
しかし時代が下がるにつれてお釈迦さま一人の立場が上昇し、アルハットという言葉の意味そのものが相対的に下降したんです。

『まわりみち極楽論』朝日新聞社

玄侑宗久氏は、「聴く」ことについてさらに本書の中でこう語る。
『「聴く」というのはどういうことか?
会話しながら、我々は次の自分の科白(せりふ)を考えていたり、あるいは相手の発言に対する批評を思い浮かべたりすることが多い。
そんなことをせずにただ相手の言葉に耳を傾けるわけですが、これがけっこう難しい。
大抵、途中で自分の価値判断を加えてしまいますね。
しかもその結論は決まっています。
自分が正しくて相手がおかしい、ということです。
まず、そうした価値判断を放棄することですね。
前提として、自分も相手も違った光を発して輝くわけですから、無駄な比較や批判をしない、と思ってみてはどうでしょう?
《何事も  言うべきことは  なかりけり  問わで答うる松風の音》

松風の音を聴くようなつもりで、というと奇妙ですが、とにかく素直に聴いてみるんです。
どうも私たちが受けてきた教育は、努力を重ねてだんだん完璧に近づいていく、という物語だった気がするんですよ。
そして私たちは、他人よりも自分のほうが完璧に近いと思い込みやすい。』

人は、自分の意見を言いたくて仕方がない生き物だ。
人に認めてもらいたい、自分が正しいと分かって欲しいと常に思っている。
その結果、人の話を聴かずに、しゃべりたくてウズウズしてしまう。

ことほどさように、聴くことには「自律」が必要だ。
自律とは、自分のきままを押さえ、自分の立てた行動規範に従って正しく自己コントロールすること。

聴くことに優れているだけで羅漢さまになれるという。
自分を律し、人の話を聴くことのできる人でありたい。

上記の【聴くことに優れている人が羅漢さま】については人の心に灯をともすより引用しています。