ままならぬ世の中 一番ままならぬ この私

ー杉浦佳浩

ままならぬ世の中 一番ままならぬ この私


2019年 03月 04日

おはようございます!

ままならぬ世の中
一番ままならぬ
この私
ほんと自分のこと
真正面から向き合えず
客観性を見失う
いくつになっても成長が見えず。
先日お会いした【元経営者さん】
8年の経営にピリオド。
一時は数十人の体制であったそうです。
何もお聞きせずとも
ご自身から破産の手続き中と
口を開いて下さいました。
再起についてお聞きすると、
自分のような経営者に寄り添う
仕事がしたいと。
失敗経験が活かせる仕事に。
お役立ちの精神そこに生きがいを。
私もお役に立てますようにと
お伝えしました。
【人を養うは100年の計】
他者貢献を意識できる1週間に!
今週も
よろしくお願い申し上げます!
目的をもって生きる。
信じるところ生きる。
修養つとめる。
そこずから積極的な楽しみが
生まれてくるである。
良いですね。積極的姿勢、活動すれば
開けることたくさんあります。。。。
間学とは】
伊藤肇氏響く言葉より…

《宰相五つ条件とは》(李克)
『居てはこ親しむところをみ、冨みてはそ与うるところをみ、達してはそ挙ぐるところをみ、窮してはそ為さざるところをみ、貧してはそ取らざるところをみる。五つもってこれを定る足る』

第一「居てはそ親しむところをみる」というは、官をひいている時、つまり浪している時、いかなる連中とつき合っていたかを観察する。
というは、地位、肩書、名誉といった虚飾を全部はずした裸間である。
だから浪交友は「裸つきあい」であり、アリストレス友達は第二自己である」という箴言(しんげん)が最も適格用できるである。
つまり、浪低俗でくだらぬ連中とすきあっていたら、そ間自体がお粗末だと判断して間違いないし、すばらしい物、一流物ばかりがそまわりをとりまいていたら、まさしくそれはほんもである。

第二「冨みてはそ与うるところをみる」というは、財を成した時、そ金を何使ったかをみるである。
使い方くらい難しいもはない。
それは格がそっくりそまま反映するからだ。
金ができたら、まっさき女を囲ってみたり、書画骨董うきみをやつすようでは、とても宰相たる資格はない。
天皇師傅(しふ)で『倫理御進講草案』を遺した杉浦重剛は「一計は田を耕すあり。十年計は樹を植えるあり。百年を養うあり」(菅子)を引用して「材養成ため巧み時と金を使うことが、経済極意である」と喝破している。
「経済」とはもちろん「経世済民」(世を治め、を救う)意味であるが、最高使い方はを養うことである。

第三「達してはそ挙ぐるところをみる」というは、高位高官ぼった時、いかなる物を登用し、いかなる本を推せんしたかを観察する。

第四「窮してはそ為さざるところをみる」というは、困窮したときいかなる態度をとったかを観察するである。
いかなるも、単調だがやすらかで牧場牝牛ようんびりし生を命終わりまで続けられるなどということはあり得ない。
どんな生も、晴れる日もあれば、曇る日もある。
あれば風もある。
しかし、大きくわけてみると「焔(ほお)時」と「灰時」と二つである。
「焔時」というは、燃えさかる焔如く、勢いがさかんで、こ時は少々無理をしても、大体ことがうまく運ぶ。
ところが、いったん「灰時」入ると、何をやってもうまくいかない。
やることなすこと、裏目、裏目とでる。
そんな時は、静か「灰時」没入し、自己沈潜(ちんせん)して、実力を養成する時期なである。
事実、何をやってもうまくいかぬ時は何もやらぬが一番いい。
ところが小限って、そういう時はやたら何事かをやらかして失敗する。
何事かをやっていないと不安でしようがないからだ。

第五「貧してはそ取らざるところをみる」というは、貧乏対する処しかたである。
万事好調で懐具合もいい時は、間はあまりオタオタしないし、ボロも出さない。
だが、そ同じ間が、いったん貧乏して尾羽(おは)うち枯らすと、一変してダメなる。
腹はかえられぬとばかり、みすみす、邪(よこしま)な金とわかっていても、ついポケット入れたくなる。
それを歯をくいしばっても我慢するか、どうかが、物評価わかれ道となる。
貧乏であろうと、あわてることはない。
目的をもって生きる。
信じるところ生きる。
修養つとめる。
そこずから積極的な楽しみが生まれてくるである。

十六世紀はじめ、日本を訪れたザビエルが驚きと感激文字を綴っている。
「日本は、キリスト教国民もっていない一つ特質がある。これは武士がいか貧しくとも、そ貧しい武士が富裕な々から富豪と同様尊敬されていることだ。彼らは武士、平民を問わず、貧しさを恥と思う者は一もいない」

間学』PHP文庫

これは宰相条件ではあるが、なるため条件でもある。
それは、うまくいっている時と、まずくなった時生き様問題だ
調子いい時、威勢がいい時は、とかく有頂天なりがちだ。
すると、偉そうなったり、を見下したりと、卑しくなる。
、勢いがなくなったり、落ちぶれてしまったときは、余裕がなくなり、愚痴や不平不満も多くなり、お金も汚くなり、これまた、卑しくなる。

『粗(そ)して野(や)だが卑(ひ)ではない』
と言ったは元国鉄総裁石田礼助。
言動が粗野であっても、決して卑しい行いや態度はとらない、という気骨

間学を修め、卑ではない気骨なりたい。

上記の【間学とは】については

人の心に灯をともすより引用しています。