多くの失敗の先に。最善観を

ー杉浦佳浩

多くの失敗の先に。最善観を


2023年 09月 11日

【今週の自戒】
多くの失敗の先に。最善観を

多くの失敗が
山の麓となり
その頂上を支える

ドリアン助川さんの言葉いいですね。

たくさんの人、たくさんのビジネスシーン
その時、その折々に関わったり、
耳を傾けたり、何かしらの失言
誘導ミスをたくさんあったと認識しています。

全てに意味があり、それぞれが必然である。
続くご縁もあればその場限りのご縁も
これも致し方ない。
そして次へ進んで行く。その繰り返し。

イマココで起こることは全て最善であること
森信三先生の境地になりたいと思いつつも
まだまだ。
ただ多くの先人、先輩で憧れの方々は
この最善観を持って生きてこられたと思います。

ある業界のレジェンドと呼ばれる人と話していて
昭和を彩った方々の生き様に触れることがありました。
皆さん、今を真剣に生き切った。
最善観という言葉は出ませんでしたが
その生き方が重なる思いでした。
これからもたくさんの失敗を麓に。
運と縁とタイミングそしてワクワクを
今週もよろしくお願い申し上げます。

【最善観とは】
森信三氏の心に響く言葉より…

「最善観」という言葉は訳語でありまして、西洋の言葉では、オプティミズムという言葉がこれに相当しましょう。
通例は、これを「楽天観」とか「楽天主義」と訳するのが普通ですが、 哲学のほうでは、これを「最善観」というのが普通になっています。

元来この言葉は、ライプニッツという哲学者のとなえた説であって、つまり神はこの世界を最善につくり給うたというのです。
すなわち神はその考え得るあらゆる世界のうちで、最上のプランによって作られたのがこの世界だというわけです。
したがってこの世における色々のよからぬこと、また思わしからざることも、畢竟(ひっきょう)するに神の全知の眼から見れば、それぞれそこに意味があると言えるわけです。

そしてライプニッツは、かような見解を説明するために、哲学者としての立場から、色々と説いているわけですが、今私はこの真理を、自分自身の上に受け取って、もしこの世が最善にできているとしたら、それを構成している一員であるわれわれ自身の運命もまた、その人にとっては、最善という意味を有しなければならぬと信ずるわけです。

わが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必要であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。
それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、一切これを却けず、 素直にその一切を受け入れて、そこに隠されている神の意志を読み取らねばならぬわけです。
したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、 天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯です。

『運命を創る 「修身教授録」抄・10講』致知出版社

舩井幸雄氏は『未来を変えるクセづけ―舩井幸雄の金言集/海竜社』でこう語っている。

『人生の悲喜こもごもさまざまな出来事は、実はすべて必要で必然です。
ですから目先の出来事の一つひとつについて、安易に正誤や善悪、幸不幸などの二元的な判断を下さないほうがいいようです。
楽しいこと、喜ばしいことはともかくとして、悲しいことやつらいことを必要、必然とはなかなか思いにくいものです。
しかし、生起した時点ではその意味がよくわからなくても、まず素直に受け入れ、じっくりと考えて、その後の事態の進展を注意深く観察すれば、それがいかに必要だったか、ベストだったかが必ずわかるはずです。
今よりもよくなる過程で起こった出来事と、すべてを認識したうえで、意味と理由を考えることに挑戦していただきたいと思います。』

嫌な事や辛かったことを乗り越えた後に、「あれがあったおかげで今の自分がある」、と思うことは多い。
この世に生まれるときに、自分の人生のシナリオを自分で書いてきた、という考え方がある。
良いことももちろんだが、嫌なことや辛いことも、自分でそうなるようにシナリオを書いてきた。
つまり、そのことによって、自分を成長させるための出来事だったということ。

だからこそ、すべての出来事は、「必要」であり「必然」であり、「最善」なのだ。
「最善観」という言葉を胸に刻みたい。

上記の【最善観とは】については人の心に灯をともすより引用しています。