世直しと世直りの違いを感じた、そして余直りへ

ー杉浦佳浩

世直しと世直りの違いを感じた、そして余直りへ


2022年 04月 25日

【今週の自戒】
〜世直しと世直りの違いを感じた、そして余直りへ〜

久しぶりにお会いした方、
年齢は関係ないと思いつつも
この若さでありながらという
ことが先に立つ。

前回お会いした際は目つき鋭く
近寄っただけで切られるんじゃないかと
思うくらい。
自分にも厳しい、周囲にも厳しい
圧倒的な実績を叩き出していますと
顔に書いている感じでした。

数年ぶりの再会、柔和な笑顔の持ち主に
その変化のギャップに驚くぐらい。
大きな仕事をやり切った、
たくさんの失敗も経験
お陰様でと心底から言えている。。。
そう感じました。
私の話しにも真剣に耳を傾け
自分ごとで受け取ってもらえて
嬉しかった。

前回は自分の能力対周囲の環境と
対峙し続けていくという口ぶりだった
今回は、一体となり、自分ごと
自分も変化しながら会社、日本の変化に
寄与していきたいと話していました。

考え方の変化でこれまで変わるのか
と思ったくらい。
顔つきまで変わり、応援したくなる顔に、
笑顔が自然でした。
世直ししようから世直りしようへ
自分を変えてでも周囲への
良い影響を続けていく
素晴らしい人に再会できて幸せでした。
今週もまたたくさんの出会いに感謝。
今週もよろしくお願い申し上げます。

【一体となる】
修養団、中山靖雄氏の心に響く言葉より…

《私とあなたの区別のない世界を生きていたのが日本です。》

東日本大震災の時に、天皇陛下が被災地の方に「助かってくださってありがとうございます」とおっしゃいました。
「助かって良かったですね」ではないのです。
このように、「私」と「あなた」の区別がない世界を生きていたのが日本です。
川端康成さんがノーベル賞を受賞した講演の際の演題は、『美しい日本と私』だったといいます。
しかし、途中でそうではなかったと思い直し、『美しい日本の私』に変更したそうです。

私たちは、向かい合っているのではなくて、お互いが自分の中に存在している。
つまり、「私の中のあなた、あなたの中の私」という感覚で生きてきたのですね。

「日本を変える」「世の中を変える」と、相手を設定して作り出し、自分が変えるべ き問題として向き合うとやる気になるし、力も出やすいと思います。
しかし、日本と向かい合うのではなくて、自分が日本なのだと思う。
これが大事な のです。
「日本を変える」としたとたん、「日本と私」と別物になってしまいます。
自分が日本なのだと思って生きていく。
そのほうが本当に深くて難しいことなのです。

また、「世直し」と「世直り」は違います。
「世直し」は、世の中を自分の外に見ています。
世直しというのはまず自分がいて、「俺はこうして世直しするんだ」という思いです。
一方「世直り」というのは自分直りということです。

天の仕込みがあって、自分が天来の生き方になっていく。
自分が直ったら、世の中も直るという世界です。
それが 「世直り」です。
「世直し」は人間がすること、しかし、「世直り」は天がすることなのですね。
世の中が何が原因で変わっていくかはわかりません。
ですから、まず自分の「世直り」からなのです。

「ハインリッヒの法則」というのがあります。
「1対29対300の法則」ともいいます。
もともとは労働災害における経験則で、ひとつの重大事故が起きる前には、29の 軽微な事故があり、さらにその背景には300の異常があったというものです。
「世直り」もこれと同じことがいえます。
大きなひとつの出来事のためには、29ぐら いの中ぐらいの出来事が必要です。
その29の出来事が起きるためには300ぐらいの 小さなことが行われなければなりません。
逆に言えば、大きなひとつの出来事のために、一人ひとりの「世直り」が必要なの です。

「世直り」は「余直り」とも書きます。
世の中の「世」と、自分という「余」、 よくお殿様が「余は』という「余」をひとつにかけてあるのですね。
世を思うとは、 自分や国を思うことでもあります。
国を思うというのは、前に立って旗を振って国を 守っていくようですが、そうではありません。
一人ひとりの世直りが、天にも世の中にも影響するのです。

《私の中のあなた、あなたの中の私》

『すべては今のためにあったこと』海竜社

「世の中や社会をよくしたい」と思う人は多い。
その心意気や良しだが、本当に大事なのは言っている本人が、今どんな行動をとっているかだ。
たとえば、「この町をよくしたい」という人に、道徳心がなかったり、いつも不機嫌だったり、人の話を聞かなかったり、愛想が悪かったりしたら、まわりの人はどう思うだろうか。
「町をよくしたい」という言葉が空々しく聞こえるに決まっている。
それが、他人事で動く人。

逆に、なにごとにおいても、自分事として動く人は、まず自分のできることから始める。
それが、自分の身近な人を幸せにすること…
たとえば、「挨拶」「笑顔」「感謝」「傾聴」「笑い」の実践。
まさに鍵山秀三郎氏のいう「誰でも簡単にできることを、誰にもマネできないほど続ける」ということ。

「一体一如(いったいいちにょ)」という禅語がある。
相手(モノや人やコト)とひとつになることだ。
共感力があり、ひとつことに没入し、対象と一体となることができること。

自分の我というエゴの心があるうちは、一体になることはできない。
こだわりを捨てること、執着を捨てること、なりきること、比較しないこと、立場を捨てること。
そして、対象と一体になる。
すると違う世界が見えてくる。

自分が世の中だと思う…
自分が相手だと思う…
自分が親(子ども)だと思う…

一体となった人は、素直で自然体だ。
一体となっていない人は、嘘くさくて、空々しい。

すべてにわたって、自分事として行動できる人でありたい。

上記の【一体となる】については人の心に灯をともすより引用しています。