美しい言葉を使う酷い人もいれば厳しい言葉を使い温かい人もいる、こちらが心の色を見抜けるか?ただそれだけ

ー杉浦佳浩

美しい言葉を使う酷い人もいれば厳しい言葉を使い温かい人もいる、こちらが心の色を見抜けるか?ただそれだけ


2020年 09月 21日

【今週の自戒】
〜美しい言葉を使う酷い人もいれば厳しい言葉を使い温かい人もいる、こちらが心の色を見抜けるか〜

国の代表が決まって一言
という場面を見聞きします。

上から目線、
評論家
批評家
そんなコメントのオンパレード
そしてそれを平気で流す側の人々
議論する気もなく、ただただ
近寄りたくない、自分の周りには
そんな人達がいなくて良かったと
感謝しています。
こんなお話はまだわかりやすい方で、

会議体、MTG、役員会たくさんの場面に
参加させていただきながら、

言葉は優しい、しかし、部下の話す内容に関心なく
聞き流す、遮る、話題を変えるそんな場面

言葉は厳しい、しかし、真正面から受け止める、
自分の意志をキチンと伝える、必ず笑顔のオマケ付き

言葉の根底にある、【心の色】をこちらが見抜けるか?
ただそれだけに感じます。

荒削り、素行が悪い、しかし心の色が綺麗であれば
付き合えば良い、表面だけで判断するのではなく
相手の心根が見通せる眼力を養いたいと思います。
今週もよろしくお願い申し上げます。

心の色をこちらも透き通った状態に保つ
これも状況の変化でなかなか厳しいときもある
しかし心がける、意識することで
変化していくものだと思います。

世代を超える
垣根を超える
そんな気持ちを持ち、
優しい言葉美しい言葉で語りあえる関係性構築を
有り難い毎日に。

【一言でよい、愛の言葉がけを】

正法寺住職、愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の心に響く言葉より…

「ワシャアしょうもない男でしてなあ」
走り出すと同時にタクシーの運転手が語りかけてきました。
「稼いだ金は全部マージャンなどの遊びに使ってしまい、一銭も家には入れない。
女房は一言も文句をいわずに『お父さんの稼いだお金だから、ご自由にお使いください』といい、子供は女房が一生懸命働いて、立派に教育してくれました。

女房は器量が悪いので、どこかへ行くときは『うしろから離れてついてこい』などといって、ひどい亭主でした。
自分で稼いだ金だけでは足りなくて、女房に『借せろ(名古屋弁で「借せ」の意)』とまでいいましてね。
あるとき、女房に『金を借せろ』といいました。
女房が『まあ、お父さん、お茶でも飲みましょう』といってパイナップルの缶詰を持ち出してきたのです。
“金を借せろというのに何がお茶だ”と思っていました。
女房が缶詰をあけたら、中に百円玉や五百円玉がいっぱい詰まっていましてネ。
『お父さん、少しずつ少しずつ貯金したものです。今これっきりないですが、よかったらこれ使ってください』というんです。

私は頭をぶんなぐられる思いがしましてネ。
すまなかった!とほんとうにあやまりました。
それから私の人生観は百八十度変わりました。
せめてもの罪ほろぼしの思いで、月に一度、女房と女房の親しくしている友達とを車に乗せて、女房の好きな温泉めぐりをしておりますんですよ」

私はしみじみと、道元禅師の「愛語よく廻天(かいてん)の力あることを学(がく)すべきなり」のお言葉の実例をまのあたりに見聞する思いで、運転手に礼をいって降りたことでした。
「廻天の力」というのは天子さえも方向転換させる力、ということです。
「綸言(りんげん)汗の如し」といって、天子が一度いい出したことは、たとえそれが道にかなわないことであっても、「ごもっとも」と通さねばならない。
一度出た汗はひっこめることができないように。
その天子の心さえも、方向転換させる力を持っているのが、愛語だというのです。

中国・唐の名君の誉れ高い太宗にこんな話が伝えられています。
あるとき、太宗が洛陽宮(らくようきゅう)を修復しようといい出しました。
皇帝が何か事業をしようとすると、多くの民衆がかり出される。
たまたま農繁期であったのでしょう。
今かり出されたら農民は困ります。
民衆を困らせることは皇帝にとってもよいことではない。
そこで諫議(かんぎ)という皇帝のご意見番の張玄素(ちょうげんそ)が「今はそのときではない」と真心を傾けて進言しました。
太宗はこの忠言を是として受け入れ、宮殿の修復をとりやめた。
功臣の魏徴(ぎちょう)が「張、公事を論ずるに廻天の力あり」と讃嘆(さんたん)の言葉を惜しまなかったといいます。

道元禅師はこの魏徴の言葉と共に、さらに別のところで「明主に非(あら)ざるよりは忠言を容(い)るることなし」の一句を添えておられます。
とかく後輩とか弟子や子供に非を指摘されると、先輩とか師匠や親の面子(めんつ)にかかわるような気がして、素直に受け入れられないものです。
大切なことは、そのことが道理にかなっているか否かなのであり、道理にかなったことならば、相手が誰であろうとそれにしたがう。
それがあるべき姿でしょう。
しかしそれができるのは明君であればこそ、というのです。

愛語ということで思いおこすことがあります。
インドにマザー・テレサを訪ねたときのこと。
路上生活者たちに炊き出しをする。
一人ひとりにパンとスープを手渡すのですが、マザーはシスターたちに三つのことを、その度にたしかめたといいます。

「あなたたちは、受けとる一人ひとりにほほえみかけたでしょうね。
ちょっと手を触れて、ぬくもりを伝えましたか。
短い言葉がけを忘れはしなかったでしょうね」と。

ほほえみかける。
いつくしみの眼と顔で。
仏教ではこれを慈眼施(じげんせ)、和顔施(わげんせ)といいます。
そっと手を触れてぬくもりを伝える。
心のぬくもりを肌を通して伝える、心慮施(しんりょせ)といえましょう。
一言でよい、愛の言葉がけを、愛語施です。

それらはすべて深い愛の心、慈悲の心のあらわれで、それが人々の心を安らかにし、あるいは萎えた心を立ちあがらせ、あるいは百八十度方向転換させる力を持っているというのです。
心して愛語の、愛心の配達者になれたらと、念ずることです。

『泥があるから花は咲く』幻冬舎

人は、年下や、後輩、子供に、何か注意されたり、意見されると、なかなかそれを聞き入れることができない。
聞き入れられないどころが、カッとなって孫を殺してしまった年寄りもいた。
道元禅師のおっしゃる通り、「道理にかなったことならば、相手が誰であろうとそれにしたがうこと」が大切だ。

年をとったら丸くなるのではなく、むしろ我慢ができなくなったり、自分の本来の姿や、欠点が出てきてしまう人が多い。
そういう人は、行動範囲が狭くなったり、新たな知識のインプットもなくなり、好奇心もなくなっていく。
結果として、人間関係も狭まり、生活もマンネリとなって、許容範囲が狭くなるからだ。
そして、若者の行動や価値観を許容できなくなる。

反対に、いつまでも若者たちと一緒に飲んだり、騒いだりできる人は、常に新しい知識をインプットしたり、新しいことに好奇心旺盛(おうせい)だ。
そして、そのことで自分の許容範囲を広げている。
すると、いくつになっても、新たな人間関係が広がってくる。

人間関係を円滑に行うための大事な要素が、愛語だ。
愛語があれば、老若男女、上下わけへだてなく、親しく付き合うことができる。
「ていねいな言葉」「あたたかい言葉」「やさしい言葉」「思いやりに満ちた言葉」。

一言でよい、愛の言葉がけができる人でありたい。

上記の【一言でよい、愛の言葉がけを】については人の心に灯をともすより引用しています。