自分自身に微笑みを 良き人生の一歩に
2023年 01月 02日
【今週の自戒】
自分自身に微笑みを 良き人生の一歩に
年末にお墓参りに。
毎月月末恒例の自分行事と決めて
もう30年が超えました。
いつしかお経を自分で読み上げるようになりました。
いつしか自分のご先祖だけなく親戚のお墓に線香を。
いつしか周囲のご近所の見知らぬ墓石にお水を。
いつしか願い事から有り難うございますへ。
そのうちご近所のお寺が掲げている
素敵な言葉に足が留まるように、
そのうちスマホが出現し、写真を撮るように
そのうちその写真をSNSに投稿するように。
自分への戒めとして。
この投稿も10年を超えてきました。
自分自身が楽しいと思える毎日、
墓参りしたから人生が好転したとは言いませんが
手を合わせ、1ヶ月の振り返りを続ける
避けられない【老・病・死】を受け入れ
笑みの大切さに気付いたからか。
自分自身への微笑みが良き人生の一歩に。
生計・身計・家計・老計・死計の五計
人生は心ひとつの置きどころ
今週もよろしくお願い申し上げます。
【人生の五計】
安岡正篤氏の心に響く言葉より…
南宋の見識ある官吏に朱新仲(しゅしんちゅう・名は翌)という人がおりました。
時の宰相に憎まれ、辺地に流されたが、悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われた。
その彼が説いたものの一つに「人生の五計」という教訓があります。
一「生計」われ、いかに生きるべきか。人々は一般に生計と言うと生活、暮らしの意味にとっておるようだが、彼はもっと大きな、いわば「天地の大徳」を受けて生きる人間の本質的な生き方に迫っているわけであります。
二「身計」いかにわが身を人間として社会に対処させていくか、何をもって世に立つか、いかなる職業、価値観をもって生きていくかということ。
三「家計」これも、単に経済的な意味ばかりでなく、家庭というものをいかに営んでいくか、夫婦関係、親子関係はどうあるべきか、一家をどう維持し ていくかということであります。
四 「老計」いかに年をとるか、人間は誰も生きているからには老いる。ことに日本は今や世界一の高齢化社会になり、老いることの難しさをひしひしと感じる昨今である。老後の生活とか健康ぐらいしか考えないが、「老」たるものの価値を生かしていかなければ、ただ寂しく年をとるというに過ぎないのであります。
五 「死計」われ、いかに死すべきや。これについて思案の最も発達している のは、言うまでもなく仏教ですが、儒教においても興味ある思案と実践がある。
『人生の五計』PHP文庫
五計について安岡正篤氏はこう語っている。
一「生計」
私たちは多くの書を読む必要があると同時に、多くの人を知る必要がある。
また、人間というものは、たまには膝を交えて話をした、一緒に一献酌(く)み交わした時に、何心(なにごころ)もなく言うた一語に、君はなかなかいいことを言うね、見直したよというようなことから、大いに話が進む。
それがいわゆる人生の生というものである。
二「身計」
いかに身を立つべきか、世に処すべきか、志を立てるべきかという身計。
志のある者が、それぞれの場において、自ら信ずるところを実践するよりほかに世の中を良くする道はないのであります。
伝教大師のいわゆる「一灯一隅を照らす」と言う、自ら一灯となって、自らの座しておる一隅を照らす。
一灯行の実践をすることだ。
三「家計」
私の親友に知事までやった人がいる。
知事になる時に次官と喧嘩をして、辞表を叩きつけて、家へ帰ってきた。
この奥さんといのは、財界の名士の娘さん。
奥さんに「俺は今日、次官と喧嘩して辞表を叩きつけてきたよ」と言った途端に、その細君が「言わんこっちゃない。だから私はあんたは偏屈でいかんとしょっちゅう言ってるんだ」とやり返し、「これからどうするんです?」と言った。
それで彼は気の短いやつなもんだから、手を出してしまった。
この時ぐらい俺は結婚を誤ったと思ったことはないと、私に告白しておったが、とうとう本当に別れてしまった。
この正反対の話がある。
これは内大臣をした湯浅倉平という、非常に立派な人で、悠々迫らずというのか、非常に温厚な風格のある人でもありました。
この人もやっぱり辞表を叩きつけてその座を降りた。
玄関に出迎えた夫人に「わしは今日辞表を出してきたよ」と言って、さすがにむっつりして上がりかけたら、途端に奥さんが「ああ、よかったですね。これでまたお好きな釣りができますねぇ」と言われた。
これに、その倉平先生、非常に感動して、「ああ、女房は立派な女だ」と思ったという。
四「老計」
江戸前期の儒学者・伊藤仁斎(じんさい)先生は「老去佳境に入(い)る」という詩を作っています。
年をとって佳境に入ると言うのです。
人生の妙味、学問の妙味、こういうものは年をとるほど分かる。
何と言っても若い時は、それこそ未熟です。
この未熟ということは、それだけ味がない。
まずい。
甘味、渋み、苦みという味は、お茶でも三煎(せん)しなければ出てまいりません。
だいたい甘みというのは子供でも野蛮人でもみな好くもので、誰にでも分かる。
ところが、それが進むと、この渋みというものになる。
渋みになると、これはだいぶ進んだ味わいの境地で、なんとも言えん味が出てくるんだ。
そして、第三煎で、初めてカフェインの苦みが出てくる。
この苦みというやつが、味の最も高等なものなのであります。
なんともいえない、至れる味わいなんです。
これを淡という。
淡というのは、もう甘いとか、渋いとか、そういうことを超越している至れる味のことである。
それで初めて君子の交わりは淡として水の如しということが分かる。
人間にしても、やはり五十を過ぎないとこの味は出てまいりません。
「夫婦もいい年になると、もうこれは茶飲み友達ですね」ということを人は言う。
味もそっけもなくなったという意味ではない。
本当に茶が飲めるというのは、よほど人生の体験を積んで、酸いも甘いも噛み分けた人間でなければできない。
茶話ができるようになれば、人間は大したものであります。
だから茶飲み友達というのは、これは至れるもんなんだ。
苦楽を共にしてきて、夫婦がいい年齢になって、しみじみと人生の理法を、道理を話し合えるというのが茶飲み友達。
これはやっぱり老境に至らんと駄目であります。
五「死計」
いかに死すべきかという計りごとであります。
刀折れ矢尽きて死んでしまうというのが、最も情けない死に方であります。
いかに死すべきかは、いかに生くべきかと同じことであります。
この中で老計までの四計はわかるが、死計ということはあまり聞かない。
だが実は、この死計が最も大事なのだ。
何故なら、世に出ずともしあわせな人はいるし、生涯に結婚しない人も多くいるが、人生において等しく、全ての人が経験することは、「人は生まれたら、いつかは必ず死ぬ」ことだからだ。
毎朝、我々は目が覚めることが当然だと思っている。
しかし、夜熟睡しているうちに、誰かに息を止められたら、文句も言えないし、翌朝の目覚めもない。
人は、「毎夜寝るごとに一度死んで、朝また生き返る」とも言われる。もし、明日の朝に目覚めないと思ったら、ほとんどの人は、この世はやり残したことだらけだったことに気づくだろう。
そんなとき、高杉晋作の辞世の句が思い浮かぶ。
面白き事もなき世をおもしろく(高杉晋作)
住みなすものはこころなりけり(野村望東尼)
明日、死ぬかもしれない儚(はかな)い浮世。
だからこそ、面白く、おかしく、そして充実して生きなければあまりにも、もったいない。
すべて、自らの…
心ひとつの置きどころで決まる。