今年も桜を見ることが出来たこと。有り難いと心から思う

ー杉浦佳浩

今年も桜を見ることが出来たこと。有り難いと心から思う


2021年 03月 29日

【今週の自戒】
〜今年も桜を見ることが出来たこと。有り難いと心から思う〜
今年も新幹線の車窓から眺める桜
なぜか嬉しくて嬉しくて。
厳しい寒さ、厳しい環境を越えて春を迎えて
冬から春への扉を開ける桜の花に
個々人の何かを投影するからこそ感慨深い
そう思います。
人生半分過ぎた自分には有り難くて。
幸せの語源は、【為し合わせ】、【仕合せ】だったと
本で読んだことがあります。
シアワセは一人では感じられないもの。
誰かに【為す】もしくは【仕合せる】お互いに
人と人が何かしらの縁で繋がる、話す、一緒に何かを
そこから喜びあり涙ありシアワセを感じることができる。
今年から始まった、四国歩きお遍路。3回目が終わって
今感じていること。それは、
ストレスと贅沢は表裏一体だと。
高低差、普段歩くことのない歩数
半ば強制的に日常から隔絶される
ある程度の金銭が必要
私にとっては特に身体的ストレスはかなりのもの
しかしこのストレスを乗り越えると
見たこともない景色、心地よい風、空気、
びっくりするくらい美味しいおにぎり
たくさんの贅沢を手にすることができる。
健康であること、
時間があること、
一定の金銭を持ち合わせていること
この3つの制約ごとを持ち合わせなければ
シアワセを感じることは出来ない。
自分の膝頭に何度も『有難う』と声をかけると
無理だと思った山も登ることが出来た。
糧も人それぞれ、超人的な人はどんなことが
立ちはだかってもいとも簡単に乗り越える。
仕合せな毎日を暮らせて感謝。
そして未来に向けての糧に
向き合い続けようと思います。
来年も桜が見れますように。
今週も
よろしくお願い申し上げます!

【自分がいかに恵まれているか】

小林正観さんの心に響く言葉より…

私たちは、必要なものは全部、天や神さまから与えられて、本当に幸せの海の中にいるのです。
私たちは未熟なので、「あれが足りない」「これが足りない」と、ずっと言い続けていますが、本当に必要なものは全部与えられている。
有り難くて、有り難くてしようがない状態で生きていることに気が付いてください。

K-1という格闘競技で活躍していたアンディ・フグは、35歳のとき急性白血病で入院をしてから、わずか1週間後に亡くなりました。
どういう理由で何が起きたかわかりませんが、あれだけ体を鍛えていた筋骨隆々の人が、わずか1週間で亡くなることもあるのです。
私たちは、何もしていないのに、体にそういうものを受けないで生きてきました。
なぜ、そのような恵まれた状態なのに、「あれも足りない」「これも足りない」「あれも欲しい」「これも欲しい」と言い続けているのでしょうか。
私たちは、いつ急性白血病になって1週間で死んでもおかしくないのです。

私たちは、人によって違いますが、1日に5時間とか8時間の休息をとります。
それから「週休が欲しい」「月の休みが欲しい」「年の休みが欲しい」と言います。
でも、人間の臓器は、全然お休みをしていません。
もちろん、夜も寝ていません。
土曜日になったらお休みする、日曜日になたらお休みするということがない。
月に1回や2回休ませろ、というのもありません。

私たちは、この心臓や膵臓や肝臓や腎臓に対して感謝することもなく、「自分の欲しいものが手に入らないんだ」「あれをどうしても手に入れたい」というようなことばかりを言っています。
しかし、どうして今こうやって笑顔で生きていられる私、そして私のすべての臓器や細胞に対して感謝の心を持たないのでしょうか。
これは臓器だけではありません。
「私」が今、笑顔で生きていられるということは、すべてありとあらゆる存在の人から、「為し合わせ」としていただいているのです。(「為し合わせ」とは、お互いにしてあげることで、「幸せ」という言葉の語源です。)

私たちは、心臓や肝臓や膵臓からたくさんのことをしていただいているにもかかわらず、お礼を言ったことはないと思います。
このような存在にもお礼を言ってみてはいかがでしょうか。
たとえば、右手で心臓に手を当てて、「愛しています。ありがとう」と言ってみてください。
それだけで心臓は、ものすごくやる気になることでしょう。

私は、人が死んだ話や悲惨と言われるような事故にあったことを聞いたときに、「そんなひどいことがあるじゃないか」と指をさすことはしません。
「私」がその事件によって教えらえることは、すべての存在に「ありがとうございます」と手を合わせることだと思います。
自分がいかに恵まれているか。
そういうことに巻き込まれないで笑顔で生きていられる「私」がどれほど幸せであるか、ということに気が付いた方がいいと思います。
幸せの本質というのは、していだいていることに対して、「私」もお返しをして、喜びがキャッチボールされること。
それが幸せという言葉の意味です。

『神さまの見方は私の味方』宝来社

人は、歯が痛くなってはじめて、歯の存在に気づく。
いかに、今まで何も文句も言わずに働いてくれていたことが分かる。
たった一本の虫歯でさえで、食事ができなくなるのだから。

「ありがとう」の反対は「あたりまえ」だと言われる。
体の中の「心臓」や他の「臓器」が24時間動き続けるのも「あたりまえ」。
虫歯になったときはじめてその「あたりまえ」の「ありがたさ」に気づく。

「ありがたい」とは「有り難い」。
「有り難い」とは、この世に有(あ)ることが難しい、稀(まれ)であること、奇跡のようなこと。
心臓が四六時中動いているのは、本当は「奇跡」のようなことなのだ。
だからこそ、その「奇跡」に対して「ありがとう」。

痛くならない「歯」に、24時間動いてくれている「心臓」に、「膵臓」に、「肝臓」に、そして自分の「体」全部に「感謝」をすること。
そして、体だけではなく、自分が今日一日、事故にも会わず、病気にもならず、事件にも巻き込まれなかったとしたら、これほどの奇跡はない。
つまり、生きているのではなく、生かされている自分に気づくこと。

「自分がいかに恵まれているか」
毎日の幸せに気づき、「ありがとう」と感謝多き日々をおくる人でありたい。

上記の【自分がいかに恵まれているか】については人の心に灯をともすより引用しています。